1755年11月2日、マリー・アントワネットは神聖ローマ皇帝フランツ1世と女帝マリア・テレジアの第15子としてウィーンのシェーンブルン宮殿で生まれ、ドイツ語での名前はマリア・アントニア・ヨゼファといいました。
18世紀の半ばまで、フランスのブルボン家とオーストリアのハプスブルク家は、ヨーロッパの覇権をかけて数世紀にわたり対立関係にありました。
「他の者どもをして戦争を成さしめよ。幸せなるオーストリア、汝は婚姻せよ」というハプスブルク家の伝統的な考え方に従いマリア・テレジアは両王朝を結婚で結びつけることによってヨーロッパに平和が訪れるように目論みました。
フランス王ルイ15世から、孫のルイ・オーギュスト(後のルイ16世)との結婚話がもたらされたとき、マリー・アントワネットはなんとまだ11歳だったのです…。

シェーンブルン宮殿のサロンにある「狩猟服を着た13才のマリー・アントワネット」の肖像

 

その後、書面による正式な結婚の申し込みがあるまで、母親のマリア・テレジアは彼女を国王の妻になるための教育を始めました。なんといっても彼女はまだ子供。ウィーンのシェーンブルン宮殿の居間や庭園を、兄弟や友達と遊びまわっていたのです。

ウィーンの南西部に、ハプスブルク家の夏の宮殿であるシェーンブルン宮殿とその大庭園があります。マリー・アントワネットの母親であるマリア・テレジアによってこのシェーンブルンは改築されました。この宮殿は夏の離宮として使用されていたので、儀式のみに使用を限定していたヴェルサイユ宮殿とは違っていました。
ハプスブルク家では家庭生活が中心で、私生活と君主としての義務は区別されていました。マリア・テレジアは長い治世の間にも、夫と16名の子供たちと刺繍や絵画、また、一緒に劇やコンサートを楽しんだりと大変幸せな生活を送りました。

その昔、宮殿の壁の色はピンクでつけ柱はグレーでした。その後、今と同じマリア・テレジアの好きだったマリア・テレジア・イエローに塗り替えられています。宮殿には1441室の部屋があり、現在は42室が公開されています。特に正面大階段と前庭を見下ろすバルコニーに面している「大ギャラリー(大広間)」は見ものです。長さ43mのこの大ギャラリーは白と金の壁板に豪華なクリスタルのシャンデリアで飾られています。その昔、ここでたくさんの宴が行われていました。
「鏡の間」は、幼いモーツァルトが姉のナンネルとともにマリア・テレジアの前で御前演奏をした場所です。そのとき、足を滑らせたモーツァルトは一つ年上のマリー・アントワネットに助けてもらいました。モーツァルトはお礼に、アントワネットに結婚を申し込んだといわれています。演奏を終えたモーツァルトは礼儀もわけまえず、マリア・テレジアのひざにあがって彼女にキスをしたそうです。なんともかわいらしいモーツァルトの逸話が残されいます。

「マリー・アントワネットの部屋」は、金をふんだんに使った装飾が乳白色の木のパネルに施されています。この部屋には彼女の肖像画が掛かっています。「子供部屋」には娘たちの肖像画のほかに、引き出し机として使われたマリー・アントワネットの収納チェストがあります。
そのほかにも青い中国の間、磁気の間、ミリオンの間、ゴブランの間など興味深い部屋が続き、また、回想の間はナポレオンの息子のライヒシュタット公のデスマスクや5歳の大公を描いたかわいらしい絵があります。

大庭園の丘の上にある「グロリエッテ」が建つ場所は、当初は宮殿の建設用地でした。しかし戦争によって宮殿を造る資金がなくなり、このグロリエッテを作りました。現在はお茶を楽しめる場所になっていて、ここまで散歩をしていくとウィーンの街を綺麗に見渡せます。
大庭園には植物園、温室、動物園、また、名前の由来となった美しい泉「シェーナー・ブルンネン」は、宮殿からみて庭園左側の植え込みにあります。

優雅な少女になった13歳のマリー・アントワネットは、ヴェルサイユ宮殿から派遣された教育係の神父からさまざまなことを学びました。
おてんばなアントワネットについて神父は「ちょっと怠け者で、大変なはしゃぎようで、自分の手に余るところがある」と報告をしています。女帝も次から次へと皇女に教訓を与えました。
1770年4月、マリー・アントワネットは、兄のフェルディナンド大公がフランス皇太子の代理人となり、ウィーンのアウグスティーナー教会で代理結婚式を挙げました。ここは代々ハプスブルク家の結婚式が行われていたところです。そしてアントワネットはフランス王差しまわしの素晴らしい馬車に乗ってフランスへ向かいました。角笛の吹く御者を先頭になんと馬車57台、馬367頭を連ねた大行列だったということです。
マリー・アントワネットの胸には母マリア・テレジアからもらった小さな金の懐中時計が輝き、幸福に向かって進んでいる自分の人生を疑う余地はなかったことでしょう。

 




   


マリー・アントワネットが嫁いだ際にフランスへ伝わったものがいくつかあります。代表的なのが「クロワッサン」。オーストリアのキプフェルというパンが、フランスでバターたっぷりのクロワッサンになったという説があります。
キプフェルは、オーストリアがトルコを撃退した勝利の証として、トルコの国旗に記された三日月(クレッセント)をモチーフに作ったのがはじまりだといわれています。
「クグロフ」もまた、オーストリアのクーゲルフプフがもとになったとされており、マリー・アントワネットに由来したお菓子だといわれています。アントワネットの好物だったことから、一時期ヨーロッパ中で大流行しました。このお菓子からババロアやサバランが生まれたことでも有名です。

   
    ウィーンを出発して8時間、アントワネット一行が最初の一夜を過ごしたメルクのベネディクト派修道院。ここではその夜、修道院の生徒たちによるオペラが上演されました。
しかし彼女は、ウィーンを出発した直後の不安のためか、ひどく悲しげな様子を見せたと記録に残っています。
世界有数の美しさを誇る大図書館、マリア・テレジアが寄進した司教服がいまも残っています。
    一行が3日目の宿としたランバッハ修道院。ここでも、院内のバロック劇場で「結婚」という劇が行われました。
あまりにも無邪気に笑う彼女を、従僕がたしなめるという一幕もあったといいます。
この修道院にはマリア・テレジアから寄贈された、マリア・テレジアとアントワネットらの子供たちが刺繍した法衣が残っています。
 

  さまざまな町を経由したマリー・アントワネットは、フランスとの国境に作られた島でオーストリアから着てきたドレスを脱ぎ捨て、上から下までフランス製のものに着替え、晴れてフランスの貴婦人となったのです。
そして公式証書が読み上げられ、皇女はウィーンから付き添ってきた女官と別れて未来のフランス王妃、美しいフランスのバラになったのです。


 
 


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